なにかを作る際には、「デザイン」という要素が無視されることはありません。「デザイン」とは私たちがなにかを見て「認識」するためのすべてだといっても過言ではないでしょう。「モノ」には必ず姿形があり、自然界のものせなければ、誰かに作られたことになるのです。誰かに作られたということはその姿形も誰かが「考えた」といことになります。そのモノの姿形を決めるということが「デザイン」です。デザインとは、そのものの「本質」はともあれ人が手にとって、または人が見ただけで「それ」とわかるようにしたり、あるいは観賞用として、それに触れる人になにかを伝えたり感じてもらうための「創造」です。
デザインされないものは、人が創り出すものである限りありません。何気ない身の回りのアイテムも誰かによってデザインされたものです。そのデザインにはそれに触れ合うヒトに見ただけで使い方を伝えたり、心地良さを与えたりします。ただ存在するだけで影響力をもつ、ということがデザインの秘めた性質なのです。ひとめでそのモノの本質を伝えることもできますし、反して本質を隠して全く別のイメージを抱かせることもできます。デザインとはまさにモノが自己主張するための唯一の手段であるわけです。語る口を持たないモノに誰かへの説得力を持たせ、見る者触れる者にその使用感や効果をイメージさせる。この世にデザインされていない人工物はありません。意図したにせよしていないにせよ、人が作った時点でそれはデザインされているものになっているのです。
なにもプロダクトデザインだけではありません。住居やオフィス、それに駅や商店などの「人が存在する場所」も全く同じことが言えます。全くの自然環境に身を置かない限り、私たちは常に「誰かが考えて作った」空間に身を置いていることになります。日頃何気なく目にしている自宅の扉や天井の一つ一つの構成要素が全て作られたものです。毎日通っている駅や職場、いつも買い物をしている商店などもそうです。それらの場所は私たちに「ここは○○だ」と理解される外観を持ち、実際踏み行ってみるとその通りであるのです。ですから、私たちは普段足を踏み入れない場所であったとしても、初めて訪れる場所でも、見ただけでそこが「何であるのか」わかるというものなのです。もちろん「○○駅」と記されていれば、「駅だ」と認識することができます。それは「デザイン」ではなく文字で明示したからではないのか、と思うことあるでしょう。ですが、そこに「○○駅」と記すこと自体がすでに「デザイン」です。誰かに何かをわかりやすく伝えるために情報を配置する。それもデザインです。駅の内部では旅人を目的の番線に導くための案内板や誘導版に溢れています。私たちは「駅が目的地」なわけではなく、その先に行かなければいけない場所があるわけですから、駅はただの通過点であるはずです。しかし、そんな私たちを迷わず目的の列車、そして目的地に誘導するためのデザインが、駅には溢れているのです。こう考えると、全ての人工物に何かの意図があり、人に何かを伝えるために、人に何かをもたらすために存在しているように思えてはこないでしょうか。